重要文化財
奈良県西吉野村の北部・和田の丹生川の清流に臨むようにひっそりとある賀名生の旧皇居「堀家住宅」。延元元年(1336年)の年の暮れ、足利尊氏によって京の都を追われた後醍醐天皇は、吉野へと向かう途中に郷土堀孫太郎信増の邸宅に迎えられました。天皇を手厚くもてなした郷士「堀孫太郎信増」の邸宅はその後、後村上、長慶、後亀山天皇の皇居として南朝の歴史を刻んできました。
堀家住宅のある奈良県西吉野村の北部・和田は、昔「穴生(あなふ)」と呼ばれていましたが、後村上天皇は南朝が正統でありたいと「叶名生(かなふ)と名付けられました。正平6年(1351年)足利氏が南朝に帰順し、多くの公卿や殿上人が賀名生に参候して北朝が否定されたので、翌正平7年の正月、後村上天皇は「願いが叶って目出度い」との思し召しから「賀名生」と改める勅書を下されたと伝えられています。当時は「かなふ」と呼ばれていましたが、明治の始めになって呼び方を「あのう」に統一しました。
南朝のゆかり深い地となった堀家住宅には、今も勅賜の日章旗をはじめ、貴重な品々が残り歴史と伝えています。
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後醍醐天皇から下賜された、「日本最古の日の丸」と伝えられている貴重なものです。
後醍醐天皇(1288-1339)ご愛用の品。七層の漆塗りで、往時の匠の技が偲ばれます。
後醍醐天皇(1288-1339)ご使用の茶卓。木製漆塗の天目台で外面に金箔がはられています。
後醍醐天皇より下賜。有事の際、人馬徴発の証として使用されました。
孝明天皇(1831-1866)ご使用の御机。
筆者不明。堀家所有軸最古で、正成公の顔の書き方に特色があります。
楠木正行が陣鐘として用い、正儀が堀家に寄進したものであると伝えられています。
元軍の鉄製冑。
御史(王様の特使)であることの身分証明等に使われました。
この鐙は素地を掘ったところに銀を嵌め込む象嵌の技術が施されています。
天正年間(1573-1592)石山本願寺一揆の際、若干19歳で討ち死にした堀家の祖、堀小次郎持吉の遺品と言われています。
紫糸素懸威鉄胴丸の冑。室町時代後期のものです。
南朝三帝への忠誠に対して、明治天皇より下賜された御紋附銀盃。